留まることなく

 

1月8日(月)

 年始の3連勤を終え、ご褒美にとケーキを買って星野源さんのワークソングを聴きながら帰宅、労働後のケーキが染み渡るのなんの......とほくほく顔で食べつつTwitterを眺めていたらガザの街並みに並ぶ遺体が入った袋とそれを見つめる小さな子どもの写真が流れてきて、自分の足元ががらがらと全部崩れ落ちていくような気持ちになった。
 私には私の生活があり、それを粛々とやっていくしかなく、ケーキを食べてまた明日から頑張るぞと意気込むことは私にとって必要で、でもどうしたってその生活と地続きの場所で今日も無差別に人が殺されている。そのコントラストが本当に残酷だ。戦争よ早く終われ。
 戦争を後押しするような企業の不買運動に参加したり、賛同できる運動に署名したりといった些細な範囲でしか動けておらず、どうしたら良いんだろうな。とにかく現状を知ることが大事なので(知らないことがあまりにも多いので)記事や本を色々と集めて勉強している。大学図書館って勉強したいことについての本が全部ある、すごい。
 去年の春頃に鬱の症状が酷くなってからというもの、まとまった量の活字がほとんど読めなくなり、文字を追おうとすると脳みそを歯ブラシで直接ざりざりされているような不快感に襲われてどうにもならなくなっていたのだけど、半年休学してゆっくりゆっくり精神のバランスを取り戻して、12月の終わりごろからまた少しずつ、読むペースはかなり落ちてしまったもののまた本が読めるくらいまでに回復してくれた。久しぶりに図書館で本を借りられたのが本当に嬉しかった。本が読めるということ、教育を受けられるということ以上に恵まれていることというのは無いと思っているし、その権利は誰に対しても平等に開かれているべきだ。人々からその権利を奪うというのが戦争という愚かな行為のもたらす被害の一つでもあって、そんなことは許されてはいけない。
 

 


1月12日(金)
 2024年ライブ初め。キタニタツヤさんのライブ。
キタニさんは音楽が持つ力をとても強く信じていて、そして何より音楽を愛していて、自分が作る音楽が、そこに込めた想いがどうかあなたに届きますように、という切実な祈りを向けてくれる。そしてそれは音楽からだけでなく、MCで話す内容からもいつも滲み出ている。誠実な人だと思う。
 「音楽は人生の伴奏」という言葉を目にするたび、私はずっとそれをバックミュージックという意味で受け取っていたんだけど、キタニさんは「人生のリズムを崩さないためのメトロノーム」という意味で使っていることが最近分かって、それがすとんと胸に落ちてきている。
 私のそばにいる音楽たちは、私が崩れないように、呼吸の代わりに一定のリズムを刻んでくれているんだなと思う。私が私のまま保っていられるように、私の中にあるリズムのぎこちなさを、ままならなさをチューニングしている。
 いつもキタニさんの音楽に寄りかからせてもらっているお礼をご本人に直接伝えられたら良いな、帰ったら今日のライブの感想も含めてファンレターを書こう、と決めて電車に揺られて帰る。

 

音楽はひとりになると聴こえ出す二度とは月に合わないピント / 山階基『夜を着こなせたなら』

 


1月14日(日)
 バイト。初めてモンブランを作って出した。綺麗に作れましたやったね。
 久しぶりに息が白くなる日だった。お店は年季の入った日本家屋なので中々に冷える。廊下に出ると吐く息が白くなる。やかん人間だ、と思う。
 夜頃から久しぶりに「ウワー!殺してくれ!!!」の発作が出てしまい呑み込まれないように必死で抗っていた。自分の日記を読み返したら先月の12日~15日辺りもメンタルのバランスが崩れていたのでそういう周期なんだと思う。今の自分の波の状況が把握できると少しだけ落ち着く。薬を飲んで早く寝ましょう。
 精神的に不安定になると、それまで気にしていなかったことが気になってきて勝手につらくなるので良くない。例えば私は本当に「好きなものを同じように好きな人と共有して交流する」が出来ないタイプで、昨今の「推し活」の波にも全く乗れない。そもそも「推し」という単語自体がここ数年ですごくカジュアルなものになってしまい、私が使う言葉ではなくなってしまったな、と疎外感を抱くようになった。
 ライブも映画も9割ひとりで行くし、同じものが好きな人とネットで繋がるのとかも全然出来ない。こういうブログとか、誰も見ていないに等しいTwitterアカウントで壁打ちのように話すくらいしか出来ない。別にそれならそれで良いし誰にも咎められていないのに、駄目だ私は......ニンゲントナカヨクデキナイ......と悲しきモンスターになってめそめそしてしまう。
 これは私が「誰かと共有出来なかった(したくないと思ってしまった)自分の中に残ったもの」に価値を見出しすぎているからだと思う。閉鎖的頑固オタク、厄介この上ない。もっとオープンさを携えた人間になりたい。

 

 


1月15日(月)
 今日同じシフトだったOさん(60代くらいの上品なご婦人)の接客、言葉遣いと立ち居振る舞い、電話対応がいつも本当に美しくて、横で見て聞いていると惚れ惚れする。電話対応なんてネットで「電話対応 綺麗 お手本」と入力して検索したら検索結果の一番上に出てきて欲しいくらい完璧な美しさ。
 対応した際の伝言メモも丁寧で分かりやすくて、今のバイト先に勤務するようになって初めて電話応対をするようになってから毎回どぎまぎてんやわんやしている私は、Oさんが受けている電話を盗み聞きしつつ学ぶ日々を送っている。
 「電話対応とか接客とか、いつもとても綺麗なので勉強させていただいているんですけど、前職でも接客業をされていたんですか?」という旨のことを聞いてみたら、若い頃は秘書をしていたんですよ、と返ってきて、それでか~!となる。今日は「当店が火曜日と水曜日は定休日でして」→「当店が火曜日と水曜日はお休みをいただいておりまして」という言い換え表現を学びました。大人って難しいね。

 


1月22日(月)
 「渡海さんて意外とテンパり屋さんでしょ」と人に言われたときのことを、バイト中ややこしい注文が重なって軽くパニックになりながら捌いている途中に思い出していた。
「テンパり屋さん」という響き、どことなくチャーミングで私はすごく気に入っていて、キャパオーバーしやすいとか要領が悪いとかよりずっと良い単語だと思う。なんかチョコレートとか扱えそうだし。

 

 

2月1日(木)
 ファーストデイなので映画を観に行って、本屋で本を買う。コメダに寄って買った本を読みつつ日記を書く。隣の席の男性二人の会話が耳に入ってくる。
 「神社で参拝するときは自分の名前と住んでる住所言うってのがあるでしょ、あんなのを信じてる奴は馬鹿だよ」とおそらく先輩なのであろう男性が言い放っていて、毎度神社の鳥居をくぐるたびに律義に名前と住所を心の中で唱えている私はぎく、となる。先輩男性はどうやら科学と数字を信用していて、代わりにスピリチュアルなものを下に見ているようだ。神様や宗教を信じている人を馬鹿にした物言いが続く。それを聞いている後輩にあたる男性は、そうですよね、分かります、と肯定を続ける。まあでも僕は、と後輩男性が違う意見を言いかけようとすると、先輩男性は「いやでも結局はこういうことで」と後輩男性の言葉を押さえつけてさらに持論を展開していく。後輩男性がええ、まあそうですよね、と相槌を打つ。
 やあ~久しぶりに話せて良かったよ、と満足げに先輩男性が言って、その二人は私より先に店を出て行った。ふう、と深いため息を吐く。
 対話をするふりをして、自分の価値観を相手(特に自分より下の立場にいる人)に言い聞かせたいだけの人、というのは結構いる。会話における相手の意見は求めていなくて「○○さんの仰る通りだと思います」と同意されて認められたいだけで、それをやんわりと、でも確実に相手に押し付けて、そしてそれを自覚することは無く、本人は「自分は目下の人間とも対等に話せている」と信じて気持ち良くなっている人。書いていてつらくなってきた。
 そういう大人と会うたびにうげ、と思っているけれど、私自身も歳を重ねていくにつれて、年下に自覚の無いままに同じことをしていくのかもしれない。というか既にそう振る舞っている場面があると思う。めちゃくちゃ恐ろしい。老いに付随する厄介さの正体の一つだ。どうにかしてそれは避けたい。高圧的な大人になりたくないよ~、助けてください。