誠実とは

 

11月29日(水)

 「どういう人が好き?」と聞かれたとき、迷った挙句いつも「賢い人です」と答えてしまう。私がそれに当てはまるのかは分からないけれど、世の中にはサピオロマンティックやサピオセクシャルという単語もあるくらい、知性に魅力を感じる人は一定数いるのだと思う。知は力なり。この時私が考える知性とは、単なる勉強が出来る、という意味だけではなく、思慮深さであったり、言語化を諦めることなく世界と向き合っていたり、想像力をもって他者と関われる人のことを指す。そして賢い人に出逢うためには自らも賢い人である必要があり、賢く聡い人間になりてえ......と思いながら勉強をし、本を読み、知識を得ようともちゃもちゃとやっている。

 そして、勉強が出来る人が好き、と言い切るときに伴う暴力性についても考える。私は精神疾患を持つ者として「情緒が安定している人が好きです」という発言を目にするたびに勝手に傷ついているのだけど、同じようにして、自分ではどうにもならない要因、経済的な理由や身体的及び精神的な理由、家庭環境などによって自分の希望のままに勉強することの出来ずにいた人、現在進行形でそういった環境にいる人に向かって「勉強できる人が好きです」と無自覚に言い放つ可能性があることの無神経さよ。

 何かを好きだと選び取るとき、伴って私はそれに当てはまらない何かを切り捨てている。全ての人を傷付けない言葉なんていうものは無いと分かっていたとしても、それでもできる限り他者を傷付ける言葉は使いたくない。しかし言葉は常に何かしらの加害性を孕んでいる。

 そんなことを言い始めると何も言えなくなるのでは?という気持ちになることもあるけれど、これも駄目あれも駄目って、じゃあ全部駄目じゃん!と言い切ってそこで思考を放棄することは愚かなので、じゃあそこからどうしていく?と自分の発言に付随する加害性にどれだけ自覚的になれるかを考え続けていくことが、自分が世界に対して誠実でいるための鍵な気がする。言語化を諦めない、は私が生活する上での目標でもあるので、それが出来ている人に出逢うとやっぱり素敵だな、と感じる。

 最近やっと良い表現を思い付いたんだけど「ゴールデンレトリバーみたいな人」がいちばん端的に私の好みを表している気がする。優しくて賢くて穏やかで、たれ目の笑顔が可愛い人にとても弱いです。

 


 

12月1日(金)

 お芝居において「自分ではない誰かになる」時、ただその人の性格になるだけでなく、その人の持つパーソナルスペースにもならなければならないってことなんだよな、それって難しすぎない???と思いながらここ最近のレッスンを受けている。

 私はかなりパーソナルスペースが広く、そもそも人から不意に触れられるのがとても苦手なので、自分がされて嫌なことは人にはしない、の精神で基本的にどれだけ仲が良かろうと自分から相手に触れに行くことは無いし、私の友人たちというのは私のそういう気質を分かっていてくれている(かつパーソナルスペースの感覚が似ている同士だからこそ心地よく友人関係でいられている)ので、基本的にいわゆるスキンシップの類もほとんどない。PRODUCE101のオーディション生の子たちのきらきらした可愛い戯れを観ながら、確かに自分が10代の頃にも、周りに常に友達と手を繋いでいたりハグしたりしてた子たちっていたなー、と思い出していた。

 繰り返しになってしまうけれど、お芝居を通して誰かになるときは、その人の性格になるのと同じようにその人のパーソナルスペースにもならないといけない。特にラブコメの類はパーソナルスペースも何もない。私からしてみれば突如として始まる近接戦闘である。それでも主人公の男は勝手に抱き締めてくるし、ヒロインはそれをときめく行為として受け取る。

 相手が例え好きな人であろうと急に他人の胸に引き寄せられるなんて私からしたら恐怖以外の何物でもないのだが、そのシーンにおいて私本体のパーソナルスペースは必要が無いため、私がそこでちょっと待ってくださいこの距離感は無くないですか?と止めるわけにはいかない。ヒロインになるのならば急に抱きしめられることを嬉しいと感じるヒロインのパーソナルスペースになることが必要で、伴って自己のここまでなら安全、と引いているラインのことは一度脇によけておく必要がある。それも込みで「役に入る」なんだろうけれど、私は中々そこをぱつっと切り替えられず、あー今のシーンもっとぐいっと相手に近づいたら/触れたらより良く出来たのにな、の反省ばかりだ。

 ラブコメの台本って難しい。パーソナルスペースが広大かつ強固な牧野つくしなんて嫌じゃないですか、抱きしめても良いか?なんて同意を取ってから抱きしめる道明寺司ってなんか違うじゃないですか、あ~私の世界とラブコメの世界の個々のパーソナルスペースの差が違い過ぎて付いていけない、と悪戦苦闘しながら花より男子の台本を使った11月のレッスンの振り返りをしていた。お芝居って難しい。考えないといけないことが多すぎる。

 


12月3日(日)

 じわじわと健康な精神の貯金が崩れ、軽躁期間が終わり鬱の周期に入って来ている。このがくっと急降下するタイミングが一番しんどい。それまでの1~2か月楽しかったこと嬉しかったこと全てが紛い物だったかのような気持ちになる。

 どう足掻いても軽率で軽薄な自分が露呈され続けている気がする。最果タヒさんの『コンプレックス・プリズム』に「誰にだって優しい、というのは、好きと優しさが直結しないということだから。」という文章があるのだけどまさにその通りだと思っていて、好きな人にだけ優しくする人のほうが、好きではない人に対してもにこにこへらへらと社会における「優しい」とされる言動をしている私よりもずっと素直で誠実なように感じる。優しいですねと褒めないでくれ、そんなような人間ではないんだ。

 躁状態鬱状態も抗ったところでやってくることを避けては通れないので、少しでも上下のY軸の絶対値が大きく振れてしまわないように、最小限の波になるようにやっていくしかない。辛いラーメンを食べてお風呂に浸かって薬を飲んで9時に寝る。明日もバイト。

 


12月4日(月)
「やっぱー、こういうグループ研修に女性が一人いると空気が柔らかくなって良いですよね、ライバル感が無くなるというか(笑)しかもきちんと事前に勉強してきていて、偉いですよねー」

という旨の会話をバイト中に聞いて以降かなり具合が悪い。


 女性がグループワークに参加するとき、その女性はその場で何かしらを学ぶために参加しているのであり、断じて空気作りのために存在しているのではない。唯一勉強してきたのがその他大勢の男性の中の一人だったら何も言わないだろう、女「なのに」勉強をしている、という思考が発言者から透けて見えたこともあり余計に苦しい。御本人には何の悪意も無く純粋に褒めているつもりだったのも苦しい。そして、優秀であるためにきちんと勉強して望んだとしても、女性だから、という理由のみでその競争社会の中のライバル=対等関係にすらさせてもらえない。つらい。

 女性がいないと穏やかな空気も作れないんですか???とキレ散らかしそうになるのを堪え、本当に色々と言いたいことを堪えながら怒りのエネルギーを運動エネルギーへと変換し夜道を自転車で爆走して帰宅、ひと通り溜飲も下がったところで、男社会も男社会でしんどそうだな、となんだか少し同情してしまっていた。

  マウンドから降りることを許されず、気付いたら履かされていた下駄を脱ぎたくても脱げず、いざ脱いだら逃げだと言われ、常に強く優秀であることを求められ続けている。

 今の私には自分が当事者になっている視点(女性から見る社会の生き辛さ)からの勉強をする精神的余裕しかないので、男性視点から切り取る社会学の面にまで手を伸ばせていないのだけど、もう少しその辺りについても学ばないとなーと思う。男性視点から見るフェミニズムにおいては、Spotifyポッドキャストの『黙っていいラジオ』が学びが多く得られてありがたい番組。

 目の前にある対立構造は「男性VS女性」ではなく「男性&女性VS社会&政治」であることを私たちは忘れてしまいがちで、どっちの方が生き辛いかの我慢比べをしている場合では無い。今目の前にあるのは「どっちもが生き辛い」社会だ。コンビニに行く感覚で選挙に行くべきだし、今日の夜ご飯何食べたいかの感覚で誰かと政治の話もした方が良い。私はみんなが生きやすい社会が欲しい。