正夢になるのは

 

一月九日(月)

弾丸で東京は国立へ。高校サッカー勝戦を観に行く。

私は何も持っていない、と泣きながら帰った一昨年の秋に来た雨の東京とは違って、よく晴れて空気が澄んでいた。何者かになりたいと思っていたあの時から、何者にもなれないのだと分かった上で良く東京は前よりも息がしやすい。横に広い大きな国立競技場で蹴り上げられていくボールを目で追いながら、私が二度と手に入れられないものを切り取って分けてもらったような気持ちだった。いわゆる青春と名の付くものに対してのコンプレックスが強いので、羨ましくて、ずっと眩しい。太陽が沈んでいく中で鳴った、試合終了を告げる長いホイッスルの音が今も聞こえている気がする。

 


一月十日(火)

昨日の弾丸東京旅でへとへとになっていて15時過ぎまで寝ていた。体力が無い。

一昨日、同窓会のLINEが届いた時から精神面の具合が悪い。久しぶりに刺し傷から血がだばだばと流れているような感覚になる。自分を守るためにこんこんと眠る。夢の中なら少しだけ安全だ。

楽しいことというのは実に脆弱で、いとも簡単につらく苦しかった思い出たちに覆い尽くされて消えてしまう。中学3年間を振り返っても楽しかったことを何も思い出せない。持っているはずの幸せを全部見失ってしまう。恵まれていることを否定して自ら不幸になり下がろうとしていて愚かだ。今だって充分幸せなはずなのに、幸せになりたいという思いには天井が無い。もっともっと、と思う。私はもっと幸せになりたい。

今年一冊目の本を読み終えた。ずっと気になっていた本だったのでやっと読めた、という気持ち。ハワイに行きたくなった。ハワイの波の高い海にまた入りたい。

 


一月十一日(水)

図書館でがりがり日記を埋める。文字を書きすぎて右手が痛い。中指にあるペンだこは私がそれだけの文章を書いてきた証だ。ずっと読みたかった尾形亀之助全集を借りる。『月と手紙』が好きで特にお気に入りの部分をノートに書き写した。

 


 あなたの泣き顔が好き(?)でたまらなかった。

 あなたが笑ふのが好きで、つまらないことを言つてはあなたを笑はせてゐたけれど、あなたの泣き顔があんなにいゝとは気がつかないでゐたのです。

 泣くといふことが悲しいことでないなら、(言ひ廻しがをかしいけれどもしかたがない)ときどきあなたの泣くのを見たい。

        『月と手紙』/  尾形亀之助

 

 

最近、今思い出している記憶は本当にここにあったことなのか、それとも夢の中で見た光景であって実際には経験していないことなのかのどちらなのかが曖昧になっている。どっちがどっちでもどうだっていいような気がする。

 

 


一月十二日(木)

プールに行くもやる気が無くて45分だけ泳いですぐ温泉に浸かって帰ってきた。平日の昼間から露天風呂に浸かれるので大学生は良い身分だと思う。誰もいなくて貸切状態のプールはひっそりしていて少し怖い。もう一組お客さんがいるくらいの方が安心して泳げる。

帰ってきてから『彼の見つめる先に』を観た。ブラジルの映画。10代の、誰かを好きになるってこんなにきらめいているんだよなと、思わず一時停止して心を落ち着ける時間をとったくらい眩しい映画だった。ふたりのこれからの未来が幸せなものであるように願いながらエンドロールを眺めて浸っていた。こういう繊細で穏やかな恋愛ものだけ観ていたい。

 

私も恋したいな、と思いかけるもこれはただ単に自分を許してくれる存在が欲しいだけなので却下。でも恋なんて、2人でいるときに楽しさを増やすためのものというよりも、1人でいる時の寂しさを生きていくためにあるものなような気がする。孤独に打ち勝てる人間になりたい。

 


一月十三日(金)

通院。現状維持。先生に大丈夫ですか、と聞かれて、大丈夫です、と答えたら、言い聞かせてるみたいだね、と言われた。確かにそうだなと思う。言い聞かせていないと私が本当は大丈夫じゃないことが私にバレてしまう。バレると全部が崩れ落ちて立て直せなくなってしまうので、大丈夫です、と言うしかない。

病院から薬局までの導線に式場案内のお店があって、ショーウィンドウにはきらきらしたウェディングドレスが飾られている。処方箋の紙とお薬手帳、自立支援の緑色の冊子を握りしめてその店の前を通るとき、いつも喉がぎゅっと締まる。

幼い頃、当たり前に手に入ると信じていた分かりやすい幸せの形は「自分の好きな人と結婚すること」だと思っていた。結婚が幸せという言葉とリンクした事柄だと今も信じている節があるのか、そして病気の自分のことを勝手に負い目に感じてしまう私は「こういう幸せは(今こうやって精神科に通っているような)私では手に入れられないのだ」と苦しくなってしまう。

そうして通院の度にめそめそしていたものの、最近ではその苦しさすらなくなり、割り切っているところがある。結婚して子どもを産んで、というような人生が自分の人生と繋がっているとはまるで思えなくなってしまった。苦しくなるということは、今は手に入れられないと思っているけれど本当は欲しい、と思っていた状態だったのだと思う。今は欲しいとすら思わず、結婚どうこう以前に自分一人を成り立たせることでいっぱいいっぱいになっている。

病院に行く日はいつも未来が真っ暗になるので、薬局のソファーに座って小さなテレビから流れている夕方の再放送のドラマを観ながら調剤を待っているあたりで段々と気持ちが沈んでくる。いつまでも続いていく病気との共存生活も、減るより増えることの多い薬も、慣れてきたとはいえふとした瞬間にしんどさがやってくる。

 


一月十四日(土)

昨日の夜からなんとなく不調で寝込む。午後から持ち直して映画でも観るか、となってアマプラでなんとなく気になってゾディアックという作品をかける。実在の事件というのもあって二時間半の上映時間で犯人は分からないまま終わり、ずーん......とした気持ちが残る。こういう時に観るべき映画ではなかったことが分かった。セブンとファイトクラブと同じ監督の人で、確かに空気が同じだな、と思う。

こういう時は明るい気持ちになる映画を観て気を紛らわせたいよね、とちょうど帰ってきたお母さんと話していて、2度目のアマプラザッピングをしていたらお母さんがこういう雑さがちょうど良いんじゃない、と言って、川に流れた薬品の影響でゾンビ化したビーバーがキャンプに来た若者たちを襲って回る、というゾンビ×ビーバーのB級パニックホラー『ゾンビーバー』を観始めた。あらすじだけで面白い。私も横で途中まで観ていたけれど、ゾンビとはいえ小動物のビーバーたちが人間に殴打されるのが痛ましくて見ていられなくなり自室に戻る。ゾンビーバーの勝利で人間が全滅して終わったらしい。最高。

 


一月十六日(月)

寺地はるなさんの『水を縫う』を読む。するする読める爽やかな本だった。今週末に図書館に返却しないといけない本がまだ何冊か読めていないので読み切らなければ。

今日は夕方まで2500字弱の日記を書いていた(『巻けたら』というタイトルのやつ)。どうでもいいことをつらつら書き溜めてどうにか生き延びようとしている。意味の無い人生に意味を見出そうとしている。本当は、出来るならずっと眠っていたい。夢の中でだって居場所は無いけれど、夢の中の方がこちらの世界より少しだけ安全だ。夢の中の私は死にたいと思わない。

 


 

 浅いプールでじゃれるような ずっとまともじゃないってわかってる

 「届くはずない」とかつぶやいてもまた 予想外の時を探してる  /正夢

 

 

 

一月十七日(火)

お風呂から出たら急に悲しくなってしまって訳も分からずに泣いている。やっぱり文章が一気に書けてしまう時は危ない。ある種の躁状態なのだと思う。6月のOD前2週間ほど、2500字の文章を毎日狂ったように書いていた時もそうだった。

昼間、録画していたTRIGUN STAMPEDEを観る。天下のOrangeさんの3Ⅾアニメーションはやっぱり良い。ガンアクションとカメラが目を見張る格好良さだった。アクションシーンを何度もリプレイする。ヴァッシュが良い~め~ちゃくちゃ格好良い。松岡禎丞さんのお芝居も大好き。コミカルでへらへらしていているけど底が見えなくて、でも人の良さが滲み出ている繊細さがある。これから重たいストーリーになっていきそうなので心を強く持つ。水星の魔女も6話以降観れていないので追わないと。

午後は美容室。大分落ち着いた髪色になった。もう一回金髪にしたいけどおばあちゃんに良い顔されないしな。

 


一月十九日(木)

頭痛で起きる。布団の中で呻いていたら隣の家の解体工事のどんがらがっしゃーんという音が響いていて勘弁してほしい。ロキソニンが効いてきてから外に出る。精神的に調子が悪いとお金を使うことで気を紛らわせようとしてしまうので散財が増える。新しいシャーペンを買ったけどあまり手に馴染まなくて、結局いつも使っているシャーペンを使って日記を書く。

丸善に行って本棚の下の方を見るためにしゃがんでいると、そのまま二度と立てなくなるかもしれない、と思って少しの間うずくまりながら波が去るのを待つ。何度繰り返しても新鮮に鬱の波に吞み込まれている。マニキュアがはがれてぼろぼろの爪になっていて、ニットの中の汗が冷えてつめたい。

 


一月二十三日(月)

明日はかなり寒くなるらしい。頭痛耳鳴り眩暈に立ち眩みと体調不良のオンパレードだった。活字を追うと頭がくらくらする。本を閉じて眠ってしまう。

夕方、起きてお腹空いたな、まだ眠くて仕方ないな、と思いながらカップラーメンを啜っていたら夢から覚めてはっとした。今度こそ起きて、(気持ち的に)二度目のカップラーメンを啜る。

眠ってしまう前に日記アプリに「夢と現実の境目なんて当の昔に無くなっていて 境界の無い世界で生きている」と書いていたのだけど本当にそうだと思う。どっちがどっちかなんて本当はどうでも良くて、どっちで生きていたって良い。