明けまして

 

一月一日(日)

初めまして2023年。よろしくお願いします2023年。今年の目標は「救急搬送されるような愚かな行いをしない」です。どうにか踏ん張りたい。頑張るぞ。
年始から身体を動かしたくて夕方からランニングに行った。ゆっくり5km走る。心がしんどい時は身体を動かす、という対処法を去年の12月から実行できてえらいと思う。プールもランニングもちょうど良いラインが分からなくて、2時間ぶっ通しで泳ぐor5km走るとかいう偏ったことしか出来ない。この0:100具合が私らしさなのかもしれない。
あとは少なくとも月一のペースでまとまった文章を書くことを目標にしたい。今自分がやっていることをこつこつ続けるのみ。

 


一月二日(月)

父方の祖母の家に帰る。おばあちゃんに「今の髪型“は”好き」と言われたのでやっぱり年末に金髪にしてたときのことを良く思ってなかったんだろうな、と思う。でも絶対死ぬまでにもう一回金髪になりたい。
娘さんらしく婿さんを、とも言われた。小学生の私は、20歳になる頃には当たり前に恋人がいて、20代も後半頃になったら勝手に結婚するものだと思っていた。23歳になる私は恋も愛も何も分からなくなったので、プールで泳いだり平日の昼間から温泉に浸かったりしている。
思い描いていた綺麗な将来図が16歳の時に崩れ落ちてから早7年、人生は上手くいかない、と頭では分かっていても、実際にはそれを遥かに上回る上手く行かなさなので毎度うろたえてもがいて溺れかけている。あがき続けるしかない。
夜、100分で名著フェミニズムを観ていた。「男が男に認められることは、女に愛していると言われること以上の快楽がある」という言葉に大きく頷く。
 例えば私に好きな男の人がいたとして、私がどれだけその人を認めても、愛していると伝えても、私が女である以上彼を本物の男(まあそもそも本物の男ってなんだ???とはなるわけだけど)にすることは出来なくて、それがとても悔しくて寂しい。優秀な男性たちのコミュニティに属して、恋人になった男の人の男友達、に認められる彼女、になることを求められている。
トロフィーにしかなれないのだろうか、あくまでも飾りの。負けたくないな。

 


一月三日(火)
元日のランニングによって訪れた酷い筋肉痛に襲われて二日目。三が日最終日は寝正月だった。コンフィデンスマンJPを観てどう考えても長澤まさみになりたいと駄々をこねる。長澤まさみのコメディに振り切る力が素晴らしくて私もこういう役者になりたいよ〜とじたばたしていた。去年は自分の人生で精一杯すぎて、お芝居どころじゃない!私ではない誰かの人生を追体験している場合じゃない!となっていたのでそう思えるだけ回復した証だと思う。お芝居やるぞ。

 


一月四日(水)
チェンソーマンの新刊が出る日だった。「林檎からうさぎを創り出すような小さな魔法に生かされている」という短歌を思い出しながらアキくんのことを考える。二部のデンジくんは少しだけいい男になっている。
お父さんは宿直で、夜はマックが食べたかったけど買い物に出ていたお母さんと弟から買って帰れるけど帰るの遅くなるよ、と言われたのでお腹が減っていた私は先に袋麵のラーメンを作って食べる。
ハンバーガーはいいや、となったのでスプライトだけ欲しいですと連絡した。ファーストフード店のロゴがプリントされたカップに入っている炭酸はいつもより2割増しで美味しい。

 


一月五日(木)
コンフィデンスマンを観てからオーシャンズシリーズを観返したくなって3作全部観返す。13が一番好き。集大成!って感じが。
ラスティーがずーっと何かしら食べてる姿がキュートなのと、作戦会議の中で騙す相手にハニトラを仕掛けるかって案が出た時にダニーが真っ先にラスティ―の名前を挙げて任せようとするところが好き。公式色男設定があるキャラクターに弱い。いつも小競り合いをしてる兄弟が揃って潜入先の労働環境に憤慨してストライキに参加するもんだから計画が一時停止しちゃう所も好き。

3作観終わったら8も……と思って8も観る。8でツボなのは終盤の保険会社の男性が言う「これなんか2つもある!」の台詞。アドリブなのかそれとも元から台本にあったのか分からないけど、何回聴いても新鮮に笑ってしまう。オーシャンズシリーズは映画の楽しいところが全部詰まっている良い作品だなあと思う。今年はたくさん映画を観ていきたい。

 


一月六日(金)
7~9時からプールに行って10時から図書館に行こうと昨日の夜から意気込んでいたけど起きたら13時だった。最近夢の中でも眠くて目が開けられないし本当にずっと眠い。のそのそ準備をして15時前くらいからやっと図書館に行く。仕事前のお父さんが図書館まで送ってくれた。優しい。
 寝過ごした分を取り戻そうと思って19~21時でプールに行く。平日の夜は貸し切りなのでバタフライとかしてみちゃったりしていた。ずっと泳いでいると水と自分との境界がだんだん薄れていくのでそれがすごく心地良い。体力が保つ限りずっと泳いでいたい。やっぱり来世は鯨になるしかない。

年始の金曜ロードショーハウルの動く城だった。ソフィーの「あの人はよわむしがいいの」が好きな台詞。お母さんは「わしはじゃがいもは嫌いじゃ」がかわいくて好きらしい。みかんのアイスを食べながら観た。

ジブリは小さい頃からハウルとバロンが好き。擦り切れるほど観た猫の恩返しのDVDは表面に傷が入ってしまっていて、EDの風になるの一番良いところでぶつぶつ止まってしまう。買い直したいような、思い出補正込みでそのままにしておくのがいいような。

 


一月七日(土)
たくさん映画を観る年にするぞ大作戦のもと今日は『さがす』を観ていた。ぬめっとした湿度のある映画。映画を観て本を読んで、たまにプールで泳いで図書館に通ったりしながら穏やかに毎日を過ごせている。何に脅かされることもなく生活がしたい。心が平穏無事であることが何よりの幸せだ。
去年、人から「あなたの繊細さを世間がまだ良しとしていない」と言われたことがあって、そのことを思い出していた。いつになったら許してもらえるのだろう。

 


一月八日(日)
お財布を新調。ずっと欲しかったPORTERの財布は思ってたより小さくて(二つ折りの千円札がギリギリ入るくらいの、ほとんどカードケースくらいの大きさだった)泣く泣く断念。これまで使っていたところと同じブランドのミニ財布にした。手の中に納まるサイズでころんとしている。

夜、中学の同窓会のLINEが来る。しばらく忘れていられた色んなことを一気に思い出して心のバランスががくっと崩れる。他者と関わることはとてもこわいことで、他者といることで感じる孤独から逃げたくて、私は初めからひとりでいることを選んでいる。ひとりでのんびり生活して、SNSで私はこうやって生活しています、と自己発信するくらいが今の私にはちょうど良いと思う。

入るタイミングが分からない速い流れのグループLINEも、もはや同一人物ではない中学生の自分と再対峙しないといけないのもしんどい。飽和した自己のままぼんやりと漂っていたい。

良くも悪くもみんなが勝手に作り上げた私像のままで姿を消したいという気持ちでいる。精神が混乱している時に自分の夢日記を読み返すと心を落ち着けられるという新たな対処法を見つけた。スマホのメモに文章を書いて気持ちを整理する。しんどくなった時にやることをきちんと思い出して実行出来ている。ちゃんと生きられている。明日は早いのですぐ寝る。

巻けたら

 

 8時過ぎに猫の遊ぼうよう、という鳴き声で起きる。ひと通り一緒に遊んで、今週末に返却しないといけない本を読んでいたら12時を過ぎていた。図書館で借りている本がたくさんあるのに書店でも古本屋でもどんどん本を買ってしまって未読本だらけになっている。最近になって、私は本を読むのと同じだけ本を集めるのも好きなことに気付いた。
 ジャケ買いをよくする。好きなイラストレーターの方が装画をされているからという理由で本を買うことも多い。単行本ハードカバーより文庫本の方が手に馴染むので好きだけれど、単行本が売れないと文庫版は出ないので難しいところ。

 


 昨日は歌集を買って、かばんに入れていたら本の角の固い部分がつい先日新しくしたばかりの財布の表面に傷をつけてしまった。少し凹みながらそれをじっと見ていたら、濃紺色にがたがた傷の入った財布が段々と長生きしている鯨の頭みたいに見えてきたので愛着が湧いてきた。ONE PIECEのラブーンみたいな感じ。

 大阪湾の迷い鯨はちょうど図書館で『海獣学者、クジラを解剖する』を借りて読んでいた時だったこともありタイムリーなニュースだった。どうか亡骸が粗大ごみとして処理されることなく、その大きな身体を然るべき人たちのもとで調査してもらえますように、あなたたち鯨がどうやって生きているのか、より深く知るための糸口になりますように、と思う。

 財布も紺色にしたし、年々自分の身の回りのものに紺色、深い青色のものが増えてきている。最近掛け布団カバーも紺色にして、その上に私の海洋生物ぬいぐるみコレクションを並べたら布団の上が海の中みたいになったので嬉しくなった。

 


 昼間、弟に「卵焼きってどうやって作るん」と聞かれたのでかしわ新聞のレシピを引っ張り出してきた。出汁巻きと甘い卵焼きの良いとこどりなレシピなので私はいつもこのレシピで作る。計量カップを洗うのが面倒なので、割った卵の殻の大きい方に水を注いで大雑把な大さじ3を計る。顆粒だしは白だしで代用。
 材料を計ったのでさああとは焼くだけ、というところで私が少し目を離していて、戻ってきたのと同時に弟が卵液を全部フライパンに投下して、あっ、と私が言う。えっ、と弟が返す。何回かに分けて卵液を流し込むって伝えてなかった、となり、弟の人生初卵焼きはスクランブルエッグへと変身した。チーズも入れた。
 卵液を一度に全部入れたとしても力ずくでまとめあげてどうにかすれば巻けたのかもしれないけれど、私は卵焼きを巻くのが下手なので「、、、今回はスクランブルエッグにしようか」としか言えなくて嗚呼力不足な姉よ、と反省した。どんな卵液でも見事に巻いてみせる卵焼きマスターになりたい。

 

 弟は自分が食べたいと思ったらそれを食べるために労力を惜しまない性格で、たまに学校帰りに食材を買ってきてローストビーフやらプリンやらをせっせと作っている。私は自分一人だけが食べるものには出来るだけ手をかけたくないタイプなので、単純にすごいなと思う。その手間ひまを労力として換算していないところも。

 レンチンした冷凍うどんを啜っている姉の横で弟はスムージーに入れるためのキウイの皮を丁寧に剝いている、みたいな図が我が家ではよく見られる。母に「卵焼きを作りたいので帰りに卵買って帰ってきてください」とLINEした。

 


 今日は図書館が休館日なので1日家に居た。最近は図書館に行くかプールに行くか、布団の中で本を読むかの生活をしている。大学の勉強は申し訳程度に進めるだけで、先生が参考文献として挙げた本を図書館で探し出して読んでみて、ああ難しい、と飛ばし飛ばしで文章を拾ってなんとなく理解したふりとかをしている。今年に入ってからは比較的穏やかに過ごせていて、鬱の波も躁の波もどちらも絶え間なくやってくるけれど、静かにその波が引くのをじっと待って耐え忍んでいる。

 


「水面で顔を出しているワニみたいに静かに息継ぎをする日々 少し元気が出たら陸に上がって鳥とか捕まえて食べてる」

 

と去年の6月ごろにツイートしていて、今はプールに行っていることもあり余計にそんな感じの生活だな、と思う。穏やかだけれど足元はずっとふわふわとしていて心許ない。
 元気な時も希死念慮はずっとそばにいるので、明日は何をしようかな、という気持ちと、今死ぬのが一番いいな、という気持ちが一緒にいて仲良く縁側に並んでお茶を飲んでいるような日々だ。

 


 双極性障害というのは、私の所感だと、自己が躁と鬱との間を行ったり来たりしているというよりも、平常時(とされる時)の自分、躁の自分、鬱の自分、の3人が突如集められて手を繋がされて「ひとりひとり性格も何も違うけれどみんなで上手くやっていきましょう同盟」を結んだ感じ、と表した方がしっくりくる。私はどうしたって私と手を繋いでゆくしかない。その手が離れるときは命が終わるときだ。

 分かり合えない部分というのは自己と他者の間だけに生まれるものではなく、自己と自己の間にも存在している。こういう病名ですと診断されて4年が経ったけれど、躁の自分の事も鬱の自分の事もまだまだ分かりかねることが多くて、だから日記を書いて、その日その日の私を書き残している。今日の私が何を見て、どう感じて、それをどう文章で掬い上げたのか、確かめる思いで毎日日記を書く。

 読み返してみて初めて自分のことが分かる時もある。巻いたまま仕舞われていたオルゴールが蓋を開けられて音楽を鳴らすみたいに、日記を開くと過去の自分が生きてきた過程が流れてくる。

 

 紙に書いて自己完結するだけでは飽き足りずにこうしてブログまで始めてしまった。
ああ、なんかどこかにこうしてああでもないこうでもないと言いながら生きている人がいるんだな、と、どこかの誰かに知っていて欲しいのだと思う。知っていてください。

水面

 実家に戻ってきて2か月、1月にライブに行くのでそれまでにたるみきった体をどうにかしたいのと、久しぶりに水に入りたくなったのとでスーパー銭湯に併設されているプールに泳ぎに行った。

 小さい頃から異様に水が好きで、小学生の時なんかは学校のプールにスイミングスクールにとずーっと泳いでいた。私の通っていた小学校は珍しく屋内温水プールだったので、雨の日も風の日も関係無く泳ぎ続けることができた。プール嫌いの子にとっては地獄だったように思う。

 

 中学に上がって以降は夏の体育の授業以外泳ぐことは無くなったのに加えて、温水プールでぬくぬくと育った分、外のプールの真水の冷たいシャワーとあれこれ漂う水面が嫌で仕方なかった。でも水に入れるのはうれしくて、選択科目はプールを選んだ。プールの後のみんなが生乾きの髪の毛を風にさらしている、あのけだるい国語の時間が好きだった。

 中学の国語の先生とは一度漢字テストで「得の字は上が長いのか下が長いのか」でバチバチのバトルをしたことをよく覚えている。下が長いです、と赤ペンで訂正された小テストと漢字辞典を持って「この辞書にある得の字は上が長いんですけど!」と主張しに行って、失った2点を無事に取り返した。カーテンが揺れて入ってくる風が気持ちよくて、プールで泳いで疲れている分余計に眠たくて、みんな先生の話をぼんやり聴き流しながら時間をやり過ごしていた。

 泳ぐのが好きと言っても大会に出られるほど速かったわけではなく、でも漠然と傍にいた「上手く泳げるようになりたい」という気持ちと共にいつもプールにいた。
バタ足が信じられないくらい遅くて、だからクロールが苦手で、平泳ぎが好きだった。
小学6年生の時には個人メドレー200メートルとかを泳いでいて、今考えるとすごいな、と思う。

 

 海と山だったら断然海が好きだし、川も好きだし、なんだったら雨の日はテンションが上がる。綺麗に晴れた日より雨の日の方が散歩に出たくなる。来世は鯨に生まれ変わりたいとずっと言い続けてきた。あの大きい身体でも回り切れないほどの広い広い海を泳ぎ続けたい。

 寿命を全うして海に沈んだ鯨の死骸は、海に棲む生物たちの栄養源になるそうで、そのあまりにも大きな栄養源を前に生まれていく新たな生態系のことを鯨骨生物群集と呼ぶ。初めて知ったとき、なんて美しい命のサイクルなんだろう、と思った。
 ただ、死んだ鯨がみんなして海に沈めるわけではなく、体内のガスが腐敗して浮上し、水面に浮きあがってきてしまうこともあるらしい。そのまま膨張して爆発四散することもあるんだとか。それはちょっと怖い。


 平日の昼間なので小さい子ども2人を連れた家族が一組、すべり台のある方のプールで遊んでいるだけで、スイミングレーンの方は貸し切り状態だった。足をつけて水に入っていく。約10年ぶりにプールに入って一番に出た感情は嬉しい、だった。楽しい、ひとりにやけてしまいそうになるのをこらえる。
 プールの壁を蹴ってけのびをする。あの頃ほど上手には泳げない、でも思っていたより泳げる。大きな窓から入ってくる日差しが水に差し込んできらきらしている。それを捕まえる思いで平泳ぎの腕を伸ばす。いつまでも泳いでいられるような気持ちだった。自分と水との境目が薄れていく。

 

 約二時間半、水中ウォーキングをしたりビート板を使ったりしながら休憩もなしにずっとプールにいた。入場料には温泉の料金も含まれているのでのんびり温泉に浸かって冷えた身体を温める。冬に入る露天風呂こそ沁みるよね、と思いながら外に出てみたら寒すぎて露天風呂のお湯が冷えてぬるくなっていて、これは駄目だと早々に退散して中に戻る。露天風呂の湯船にはタンポポの綿毛がたくさん浮かんでいた。子孫を残すためだけに飛び続けるのは疲れるよね、温泉に浸かりたくなる時だってあるよね、みたいなことを考える。


 壁に付いているテレビからはW杯のブラジル戦のハイライトが流れていて、日本も惜しいところまでいったよなあ、よく戦ったよなあ、と思いながら液晶を眺めていた。今回の大会を通して、私は完全に伊東純也選手に魅入られてしまっており、レプリカのユニフォームもゲットした。

 なんでまだ走れるんだ、と口からこぼれてしまうくらい、クロアチア戦の120分間伊東選手はずっと走っていた。伊東選手が空気を切り裂いて走るたびに、相手チームに喰らい付いていく度にわくわくした。もっとこの選手がプレーしているところを観ていたいと願っていた。

 誰かの心が動いているのが見える瞬間はとても美しいものだと信じていて、それは日本が負けた瞬間、崩れ落ちる選手たちを観ていてもそう思った。冷静沈着にプレーしていたように見えていた、サッカー選手という強く逞しい生き物がひとりの人間に戻る瞬間を見た気がした。
 世間はもうW杯が終わったかのようになっているけれど本番はこれからだ。ここに勝ち上がってくることが当たり前の、常勝国の誇りをかけた優勝争いが待っている。わくわく。

 

 脱衣室に備え付けられた風量の弱いドライヤーで髪の毛を乾かす。水着を脱水機にかけて施設を出る。週に2回、欲を言えば3回プールに通いたい。ただ中々に出費が痛いので、他のスイミング施設も探してみよう、と思いながら自転車を走らせて帰った。