巻けたら

 

 8時過ぎに猫の遊ぼうよう、という鳴き声で起きる。ひと通り一緒に遊んで、今週末に返却しないといけない本を読んでいたら12時を過ぎていた。図書館で借りている本がたくさんあるのに書店でも古本屋でもどんどん本を買ってしまって未読本だらけになっている。最近になって、私は本を読むのと同じだけ本を集めるのも好きなことに気付いた。
 ジャケ買いをよくする。好きなイラストレーターの方が装画をされているからという理由で本を買うことも多い。単行本ハードカバーより文庫本の方が手に馴染むので好きだけれど、単行本が売れないと文庫版は出ないので難しいところ。

 


 昨日は歌集を買って、かばんに入れていたら本の角の固い部分がつい先日新しくしたばかりの財布の表面に傷をつけてしまった。少し凹みながらそれをじっと見ていたら、濃紺色にがたがた傷の入った財布が段々と長生きしている鯨の頭みたいに見えてきたので愛着が湧いてきた。ONE PIECEのラブーンみたいな感じ。

 大阪湾の迷い鯨はちょうど図書館で『海獣学者、クジラを解剖する』を借りて読んでいた時だったこともありタイムリーなニュースだった。どうか亡骸が粗大ごみとして処理されることなく、その大きな身体を然るべき人たちのもとで調査してもらえますように、あなたたち鯨がどうやって生きているのか、より深く知るための糸口になりますように、と思う。

 財布も紺色にしたし、年々自分の身の回りのものに紺色、深い青色のものが増えてきている。最近掛け布団カバーも紺色にして、その上に私の海洋生物ぬいぐるみコレクションを並べたら布団の上が海の中みたいになったので嬉しくなった。

 


 昼間、弟に「卵焼きってどうやって作るん」と聞かれたのでかしわ新聞のレシピを引っ張り出してきた。出汁巻きと甘い卵焼きの良いとこどりなレシピなので私はいつもこのレシピで作る。計量カップを洗うのが面倒なので、割った卵の殻の大きい方に水を注いで大雑把な大さじ3を計る。顆粒だしは白だしで代用。
 材料を計ったのでさああとは焼くだけ、というところで私が少し目を離していて、戻ってきたのと同時に弟が卵液を全部フライパンに投下して、あっ、と私が言う。えっ、と弟が返す。何回かに分けて卵液を流し込むって伝えてなかった、となり、弟の人生初卵焼きはスクランブルエッグへと変身した。チーズも入れた。
 卵液を一度に全部入れたとしても力ずくでまとめあげてどうにかすれば巻けたのかもしれないけれど、私は卵焼きを巻くのが下手なので「、、、今回はスクランブルエッグにしようか」としか言えなくて嗚呼力不足な姉よ、と反省した。どんな卵液でも見事に巻いてみせる卵焼きマスターになりたい。

 

 弟は自分が食べたいと思ったらそれを食べるために労力を惜しまない性格で、たまに学校帰りに食材を買ってきてローストビーフやらプリンやらをせっせと作っている。私は自分一人だけが食べるものには出来るだけ手をかけたくないタイプなので、単純にすごいなと思う。その手間ひまを労力として換算していないところも。

 レンチンした冷凍うどんを啜っている姉の横で弟はスムージーに入れるためのキウイの皮を丁寧に剝いている、みたいな図が我が家ではよく見られる。母に「卵焼きを作りたいので帰りに卵買って帰ってきてください」とLINEした。

 


 今日は図書館が休館日なので1日家に居た。最近は図書館に行くかプールに行くか、布団の中で本を読むかの生活をしている。大学の勉強は申し訳程度に進めるだけで、先生が参考文献として挙げた本を図書館で探し出して読んでみて、ああ難しい、と飛ばし飛ばしで文章を拾ってなんとなく理解したふりとかをしている。今年に入ってからは比較的穏やかに過ごせていて、鬱の波も躁の波もどちらも絶え間なくやってくるけれど、静かにその波が引くのをじっと待って耐え忍んでいる。

 


「水面で顔を出しているワニみたいに静かに息継ぎをする日々 少し元気が出たら陸に上がって鳥とか捕まえて食べてる」

 

と去年の6月ごろにツイートしていて、今はプールに行っていることもあり余計にそんな感じの生活だな、と思う。穏やかだけれど足元はずっとふわふわとしていて心許ない。
 元気な時も希死念慮はずっとそばにいるので、明日は何をしようかな、という気持ちと、今死ぬのが一番いいな、という気持ちが一緒にいて仲良く縁側に並んでお茶を飲んでいるような日々だ。

 


 双極性障害というのは、私の所感だと、自己が躁と鬱との間を行ったり来たりしているというよりも、平常時(とされる時)の自分、躁の自分、鬱の自分、の3人が突如集められて手を繋がされて「ひとりひとり性格も何も違うけれどみんなで上手くやっていきましょう同盟」を結んだ感じ、と表した方がしっくりくる。私はどうしたって私と手を繋いでゆくしかない。その手が離れるときは命が終わるときだ。

 分かり合えない部分というのは自己と他者の間だけに生まれるものではなく、自己と自己の間にも存在している。こういう病名ですと診断されて4年が経ったけれど、躁の自分の事も鬱の自分の事もまだまだ分かりかねることが多くて、だから日記を書いて、その日その日の私を書き残している。今日の私が何を見て、どう感じて、それをどう文章で掬い上げたのか、確かめる思いで毎日日記を書く。

 読み返してみて初めて自分のことが分かる時もある。巻いたまま仕舞われていたオルゴールが蓋を開けられて音楽を鳴らすみたいに、日記を開くと過去の自分が生きてきた過程が流れてくる。

 

 紙に書いて自己完結するだけでは飽き足りずにこうしてブログまで始めてしまった。
ああ、なんかどこかにこうしてああでもないこうでもないと言いながら生きている人がいるんだな、と、どこかの誰かに知っていて欲しいのだと思う。知っていてください。